やりたいことは、やりたくないことを頑張る自分へのご褒美
なのでしょうか。
まるで、苦手な食べ物を食べたからこそ美味しく感じる好物のような。
日々の学業の苦痛が育んだ夏休みの喜びのような。
毎日毎日やりたいやりたいと思い続けていたことを、実際に毎日毎日やってみると、理解る。
自分という人間の『楽しい』を構築する力の無さというか。凡庸で退屈でありきたりな発想力と実現力しかないのだと。
というのもですね。
メンタルの方が参ってしまいまして。
日々、失業した焦燥感に駆られながらも、療養と言い聞かせては、『本業』を探しておりまして。
この一年半くらいで、趣味を仕事にすることが苦痛である人間だということはよーーーく理解した上で。
やっぱり趣味を楽しみたい気持ちは人一倍あるわけで。
つまり…趣味を謳歌する為には、それらがアクセントとなるような、生活の主軸となる『仕事』が必要な訳です。
美味しいものが美味しく感じなくなる。というのは、結構寂しいものでして。
シンガーソングライターしかり、イラストレーターしかり、ゲーマーしかり。
そればっかりじゃ味気なく思える。
「味わい方を変える努力をする」という当たり前を加味しても、寂しさが紛れる訳じゃない。
つまりは、根本的解決にはなっていない。
そう、根本的に俺は、『どーしようもなく飽きやすい』上に、『欲張り』で『ワガママ』……つまりは、『子ども』なのだ。
いくつになっても、どう足掻いても、ここばっかりは変えられない…いや、変えにくい…に過ぎないのかもしれないが。
この歳になって、それなりに経験と知識が身についてしまった以上、抜本的な解決というのは困難を極める。
ここまで深く根付いてしまった自我の問題を抜本的にやろうものなら、下手すれば崩壊しかねない。
意識的に変化を加えるには限度がある。
環境と習慣の変化。
それらによって変わる他人や空間との摩擦。
それらの摩擦熱が自分にどういった影響を及ぼすかは検討がつかない。から、そこばかりはトライ&エラーしていくしかない。
時間がかかる。ストレスもかかる。
そんなものは望んでない。けど、必要なものだ。
どうやら、必要なものらしい。
とりとめもない、駄文になったものです。
療養と甘んじて、刺激を極限まで避けて、挑戦もせず、摩擦も避けていれば、創作からも身を引けば、当たり前か。
自分に価値をつけてくれる他人や環境を求めてる。
これはもう癖みたいなもので、なかなかやめよう!とやめられるものじゃない。
けど、そろそろ。
自分で自分の価値を見出して、自分で値打ちする。
そんな生き方をすべきなのか。
売り物にならないと悲観して生きるより、売り物にもなれると自惚れて生きるくらいの方がいいのか。
確かに、それを確かめられる環境で挑戦しては一喜一憂してるくらいの方が、退屈はしないで済みそうだ。
退屈しない生き方…か。ふむ。